【相生市相生地区の歴史①】

相生(おお)のまちのこと

兵庫県相生市の南部に位置する、かつて相生(おお)と呼ばれていた小さな漁村。

明治後期までは何も無い人口約5,400人の普通の漁村でした。

            相生市相生地区の場所はこの辺り

当時の相生村村長であった唐端清太郎氏が瀬戸内海から5km奥に入り込んでいる相生湾を見て、

唐端清太郎さん
唐端清太郎さん

この穏やかな海は造船にぴったりだ!!

と、言って神戸から技術者たちを相生村に連れてきたことがきっかけで相生は造船の町になっていくわけです。明治40年3月、阪神の財界人や大地主・濱本家などの地元の有力者の支援を受けて「播磨船渠株式会社」を設立しました。完成間近でドッグが崩壊し、負債を抱えた法人は解散。一度は白紙に戻りかけたこの計画ですが、明治45年には神戸の海運資本家と再び播磨造船株式会社を設立し、播磨船渠の事業を継承したのでした。

大正3年に第一次世界大戦が勃発し、船舶の必要性が高まるも、小資本で小さなドッグしかなかった播磨造船株式会社は造船ブームに乗り遅れてしまいます。

唐端清太郎は現状打破を行うために、鈴木商店に何度も出向き、会社の買収と工場の拡張を申し入れ、なかなか話が進みませんでしたが、鈴木商店の金子直吉や辻湊らが調査を行い、相生湾が造船に適した地であると認識し、翌年の大正5年に鈴木商店が買収し、新たに「株式会社播磨造船所」として全事業が継承されました。

相生村の対岸に造船所を作り、山を削ってそれを埋め立てに使い拡張する。大正7年には大本組創始者大本百松も相生に本店を置き、造船所の改修、拡張に貢献しました。

   播磨造船所の拡張工事を行う工員たち(大正6年)
       EASTAN SHOREの進水式(大正7年)

大正2年には周囲より早く町制を取り入れ相生町にはなったものの、まだ漁村から大きな変化がなかったため、鈴木商店は大正5年に播磨造船所取得後、中国、四国、九州(特に長崎)からの工員が大量に出稼ぎに来たことで急速に社宅の建造と福利厚生の施設を作っていきます。

長屋・平屋の社宅、銭湯、播磨造船所協同組合の購買所、映画館、劇場、ダンスホール等々( *´艸`)

   在りし日の播磨劇場(外観)
       播磨劇場(内部)
   創業当時の都湯(現在も営業中)

明治末には5,400人だった人口が大正7~8年には15,000人を超えてたってんだからすごい増え方ですよねぇ( *´艸`)

相生(おお)はそんな面影が少し残っている趣のあるまちなのであります♪

個別の建物や街並みの紹介はおいおい( *´艸`)

古い町並み好きな方が撮影してくれた相生(おお)の街並みの動画がありましたので、良かったらご覧くださいませ♪

相生(おお)の町は街並みも暮らしも素敵な町です。

是非とも遊びに来てくださいね( *´艸`)

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